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  • 執筆者の写真Takeshi fujino

2022.12.27 更新            ミャンマー 山あり 谷あり ”水あり”

更新日:3月14日

2022.12.27 追伸

【ミャンマー医療支援基金】

私がチン州に行くようになって間もなく、カンペレ村を中心に医療支援活動をしている安田茂雄さんと知り合った。安田さんは以前からここでJICAプロジェクトマネージャーを務めており、その後も毎年一度は訪問していた。ミャンマー医療支援活動は引き続き行われている。詳しい活動と現状について、添付をご覧ください。


2022年度ミャンマー医療支援中間報告_221208
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         写真:安田さん(右端)とチン州の元国立公園長夫妻

   U Shein Gei Ngai of Chairman of conservation on hill ecosystem association, his wife


2022.12.27

【アウンナンダ君の再来日】

私がミャンマーと関わるきっかけになったアウンナンダ君が今年10月に再来日を果たしました。ナンダ君は埼玉大学で最初のミャンマー人留学生で2001年10月に来日、翌年4月から修士課程に入学した(当時私は副指導教員)。2009年まで日本に滞在していたので13年ぶりの日本での再会である。最初の来日時もミャンマーは民主化前の軍政にあり、今の軍政よりも怖かったそうだ。当時の研究室は留学生といえばベトナム、スリランカ、バングラデュが多く、それなりの親近感を持って接したがコミュニケーションはずっと英語だった。

 アウンナンダ君は最初の半年間を日本語教育だけで過ごすプログラムであり徐々に日本語でコミュニケーションを取るようになった。他にミャンマー人を知らない中、非常に人懐っこい性格で私に限らず多くの教職員も親近感があった。彼の在籍時にはミャット君(修士→カンボウザ銀行)とニンさん(修士・博士→建設コンサルタント)がいて、当時ニンさんは「人権」というワードを知らなかったという。それくらいミャンマーは未知の存在であった。いろいろな思い出がよみがえる。2005年7月にスペインで開催した国際会議に一緒に行った際、ミャンマーのパスポートが手書きであるためどこの空港でも発券に手間取ったが、スペインではカウンターの職員がそのモノ珍しさに感動して短距離便のエコノミーがビジネスになったのだ!(その職員のセンスが洒落ている。)その機内食が現地滞在中で一番美味しいと感じた。今回の滞在も含めてエピソードは図りしれないのでまたの機会に書こうと思う。ともあれ彼と知り合ったことで2012年から2020年3月のコロナ禍になるまで私は大いにミャンマーを楽しんだ。ナンダ君は12月23日早朝に離日した。その前夜、前回滞在時以来の温泉を共に楽しんだ。


   写真:野天湯元・湯快爽快『湯けむり横丁』おおみや(2022年12月22日)


2021.8.11

【ミンダットの学校のスナップ・その1】

2014年11月27日の朝、ミンダットのいつも利用する民宿の向かいで朝食を済ませた後に散歩をすると、すぐ学校に差し掛かる。時間があったので中に入っていくとこの日は休み明けの始業式なのか分からないが、校庭には大変大勢の生徒が集まっていた。このエリアには小学生から高校生までクラスが揃っており、集会の間に一通り校舎を見て回った。


写真:ミンダットの学校の校庭に集まった生徒たち(撮影日2014年11月27日)


校舎は木造の平屋で教室はモルタルの壁で仕切られ、木製の机と椅子が並んでいる。生徒達は一度教科書などの荷物を席に置いて集会に出ているようであるが、ふと教室内を覗くと複数の教室で隠れて宿題の答え合わせでもやっているような生徒達を見かけた。中学生の教室では英語とミャンマー語の教科書が置いてあった。英語の教科書を開くとB5判程度の大きさにびっしりと英文法の問題文が書かれていた。この地区はキリスト教信者が多いのだが教科書としては国で統一したものを使用していると思われる。また、チン族にとってミャンマー語といっても外国語のようなものである。ビルマ族からすればチン語は全く分からないのである。次に、高校生の教室は科目別に分けられているようで、例えば教室の前面にウサギの体の部位について英語で書かれた図が張り出されており、そこに生物と化学の教科書を発見した。これらはどちらも英語で書かれていた。これらの教科の理解には英語力が必要であり、生徒たちはこうして英語に見慣れるのであろう。


写真:集会をよそにヒソヒソと外から見えないようにしゃがんで話す生徒


写真:中学生の英語とミャンマー語の教科書


写真:高校生が使用する生物と化学の教科書。どちらも記述は英語。


さらに驚いたことにコンピューターが沢山置かれた教室も発見した。ここに電力はまだ十分供給されておらず手前に発電機と電流調整器が見える。これで全てのコンピューターを一斉に立ち上げているのだろうか?確かにこの集落にも電気部品を売ったり、文書のコピーや電子ファイルを印刷する所もある。しかしディスプレイは全てカバーがかぶせられて床に置かれていた。それでも国全体が情報教育を普及させる姿勢は伺える。なお、ソフトウェアはどうしているのであろう?(2021年8月11日)


写真:窓からコンピューター室の眺め。机も新しい。


2021.7.28

ミンダットは8月に入ると益々水と濃い緑に囲まれる。山の斜面に位置するため夕方になると雲が発達してスコールが発生する。ここは乾季の野焼きを除けば大気汚染は無縁であり、夜になると上空は満天の星空になる。(もう少し夜空に拘って写真に収めたかった)ここでは毎回、集落の中心にある一部屋の大きさが3畳にも満たない小さな木造の宿場で夜を過ごし、早朝になると鮮やかな朝霧が眺められる。水が地面と上空を行き来する様子がよくわかる。朝霧は夜間に谷間がよく冷えた証拠であり上空は乾燥する。それだけ紫外線も強く降り注ぐため、その点は注意する必要がある。いつものように川に降りていくと川の水量はとても豊富で中に入るのは危険な状態であった。川辺の小屋に棲む村人には記録ができる水温計を水中に置き続けることを依頼しており、特に水位が上がった時だけ小屋に避難してくれており、無事に年間を通した水温データが得られた。この時の水温は20.5℃で夏場としてはとても心地よい。今回も1日だけライトトラップによって夜間に飛来する水生昆虫の捕獲を試みたが水流がとても強い場所でもあり、数は少なく新たに現れた種は確認できなかった。但し、日中は見たこともない蛍光ペンのような体色を持つ蝶が現れた。マニアであれば持って帰りたくなる心境であろう。


    写真:ミンダットの宿場からの朝霧の眺め(撮影日2014年8月10日)


写真:川辺でよく見かけた蛍光ペンのような体色の蝶。これ以外にも羽の微細構造により多

   彩な色を放つものもあった(撮影日2014年8月10日)


 私はどうしてもこの地にいる人たちの生活ぶりに目をやってしまう。この日の午前中は村の集落からの移動中に子供たちをよく見かけた。手を振るとみんな愛想よく返すのだがカメラを向けると恥ずかしがって走り出す。ここは自然だけが財産でモノが少なく、全くの異国でありながらも我が国の遠い昔にごく普通に見られたような雰囲気がある。今年に入ってこんな平和な場所にも軍との戦闘があり、多くの犠牲者が発生した知らせを聞くと大変いたたまれない気持ちになる。(2021年7月28日)


写真:山の集落から川に通じる道沿いの斜面に家が建ち並ぶ。その場所でよく見かけた地元

   の子供(撮影日:2014年8月10日)


2021.7.20

ティンセイン初代大統領の政策によってミャンマー各地の郊外で道路工事が急ピッチで行われていた。工事の最後の仕上げはローラーを使って表面を締め固める。その光景は日本と同じであるがそこに至るまでの全ての工程は手作業である。労働者は建設業の従業員ではなく、地元住民で時折家族ぐるみで行われる。まず、手のひら以上の大きさの石を敷き詰め、その隙間に細かい砂利を撒く。さらに細かい砂を撒いた後にコールタールを散布する。コールタールは石炭を乾留して得られる副生物でミャンマーでは大量に生産できる。かつて日本も頻繁に使用したが発がん性物質が含まれるため現在の道路舗装材としての利用は禁止されている。ここミャンマーでは規制が未整備でどこでもドラム缶に入ったコールタールを温めて散布する。こうした労働は男性がメインかというと結構な女性や子供も加わっていた。一日の収入は大人が1500 kyat(日本円にすると当時100円相当)で、郊外で一般市民が利用するミャンマー流定食1回分相当である。

 移動中に同じ光景を幾度となく目にしたが一度細い道に中型トラックが対向車で現れ、工事中の道路をどちらかが先に通らなければならなかった。よく見るとドライバー同士が睨み合っている。それは大きく尖った礫の上に車が通るとタイヤがパンクする恐れがあるので相手を先に通らせて、少し慣らした所を通行することを考えているのだ。ドライバー同士「お前が先に行け」と訴え合う。結果こちらがジープ一台に対して相手は結構な重量物を積んだトラックなのでこちらが先に進んだ。


    写真:ミャンマー中で見かけた道路舗装工事。ほぼ全て手作業である。

              (撮影日2012年12月2日)

 

 ミャンマー内陸に位置するマグウェイ管区は乾燥地帯であるがアラカン山脈の梺付近は水が比較的豊富で穀倉地帯でもある。稲作と道路工事を後にして見た光景は一面のひまわり畑であった。これは食用油として各地で生産されているが、ここは自給自足と思われる。ここを通ったのが12月2日なので日本ならば冬であるためこの風景は大変驚いたが、この時期のほうが極端に暑すぎず、栽培に丁度よいのだそうだ(2021年7月20日)。


       写真:冬期のマグウェイ管区西側の移動中で見かけたひまわり畑

              (撮影日:2012年12月2日)


2021.7.7

日本を含めた多くの国で、河川の生物多様性を調べるために底生生物を採取する。それがミャンマーで実施できることに喜びを感じた。しかし水生昆虫の場合は幼虫段階で採取されるため、これを種まで同定するには夜間に飛来する成虫を捕まえて、雄の交尾器の形態的な特徴を捉える必要がある。その作業は素人には難しい。成虫の飛来は日没後にすぐ出現するものと時間が経ってから現れるものと様々であり、天候にも大きく左右される。当然、成虫になる時期でなければ捉えられず、未知の場所でそれがいつ発生するかは不明である。捕集方法は“ライトトラップ”が代表的であるが、夜まで現場に立ち入りランプの電源も必要である。そのため、バガン空港を降りてから萬屋で格安のカーバッテリーを購入する。

 他方で電源を用いず現場に居なくとも自然に捉える“マレーズトラップ”というものがある。スウェーデンの昆虫学者ルネ・マレーズにちなんで命名された。マレーズは1934年にミャンマーでテント型の捕虫トラップを作成して数多くの飛翔性昆虫を得ており当時のミャンマーでの調査を文章に残している。テントの形は様々改良が施されており、京都の昆虫採集専門店で取り寄せたマレーズトラップを持ち込んで捕集を試みた。チン州に来てから4回目の2013年4月12日に気温・水温とも暖かく羽化が始まることを期待して設置すると一晩でハエ目やハチ目に交じってカワゲラ目も瓶に収まっていた。「こんなに簡単なのか?」と思ったが、やはりビギナーズラックであり唯一の良好なコンディションであった。なおこの場所の生物多様性は高かった。


 写真:マレーズトラップによって一晩で捉えた飛翔昆虫。昆虫は障害物に当たると上部へ移動する習性を持ち、その先のビンに誘導される。(撮影日:2013年4月13日、チー川)


 さてこの日に集まったのは昆虫だけではなく“多くのビルマ族ミャンマー人”であった。たまたまヤンゴンからの高校の先生達が研修旅行のような形で大勢チン州に来ていたのだ。そういえば3月まで一緒だったツアー・ガイドが「今度200人くらいの集団をガイドしてくれ」と言われて「それは無理」と断ったのを聞いたのだが、それがちょうど今日であった。橋の脇の村民もかつてこんな人の集団を見たことはないと言っていた。チー川を渡って山道を1~2時間歩くと、村の大地主が建てた宿泊可能な休息場がある。恐らくそこまで行くのであろう。私と同じようにミンダットから歩いてきたと思われる先生達はチー川で休憩し、川の水をペットボトルに入れて気持ちよさそうに飲んでいた。かつての軍政権ではあり得ないヤンゴンからの国内ツアーで、チン州を外国人だけでなくヤンゴンの人にも知ってもらうというのが目的なのか民政移管した自由な国の一面である。


 写真:突如現れたヤンゴンから来た高校の教員たちで恐らく50人程度。

    川沿いの手前に見える白黒の網がマレーズトラップ

  (4月12日のスナップは設置時の撮影)。(撮影日:2013年4月13日、チー川)


2021.6.29

最初のチン州訪問は2012年9月19日~21日の2泊3日で、初日は丸1日往路移動であった。①途中でレンガを作成する職人宅を見つけて物珍しさに歓談をする、②河川を渡るのに車を重機で引くため約1時間順番待ちをする、③昼食を取った食堂でアウン・ナンダ君が充電中の携帯電話を忘れて10km後に戻る、④砂にはまったトラックと遭遇し道をふさいだので必死に救出する、⑤山道の上り坂で窓ガラスのないジープ車内が砂埃にまみれるなど、まるで“アドベンチャー・すごろく”に参加したかのような、しかし新鮮でエキゾチックであった。往路の経験から復路もトラブルに遭遇すると夕方の飛行機に間に合わない恐れがあるとツアー・ガイドの助言に従って夜明け前の朝5時に宿を出た。結果、トラブルには遭遇せずバガンで遺跡見物もできた。

 次のミャンマー訪問は11月27日~12月3日の6泊7日で、それまでにチン州の情報を得ようとするが集まらない。アウン・ナンダ君が現地で蒟蒻栽培が流行っていると聞き、検索すると「JICA草の根事業」として高知県牧野記念財団が薬用植物の保護に加えて村人が現金収入を得る手段として蒟蒻栽培の指導をしていた。地元では蒟蒻を食べる習慣がなく外向けだ。元JICA職員で埼玉大学飯島聰教授に連絡先を調べてもらい現地で活動する藤川和美研究員と知り合った。(以降、今日までミャンマー活動の戦友である。)12月1日にカンペレ村で森林レンジャーと村人にセミナーを開くというので私と院生のニンさんが合流して活動紹介を行った。森林レンジャー達は真面目にメモを取る。JICA草の根事業担当の森林保全省の役人はビルマ族であるがこの地域を大変気に入っていた。この人間関係がとても重要である。

写真:当時大学院生のニンさん(右側)がビルマ語で活動内容を説明。左側端が藤川和美研

   究員でその隣は日本語が堪能でダジャレも大得意の通訳ウェイさん。森林レンジャー

   と村人はひたすらメモを取る。

  (ナマタン国立公園事務所にて、撮影日:2012年12月1日、ツアー・ガイド撮影)


 私はミンダット村を繰り返し訪問したため“白い作業服のチー川を見に来る日本人”として村中に知られ、アウン・ナンダ君にも伝わった。村民が日本人を見るのはまれで路地の商売人は物珍しさに注視するが物腰は柔らかく、“また来たのね”と笑顔で応える。山中で焼き畑農民と遭遇しカメラを向けるとすぐに顔を背けるが、改たまってお願いすると愛想は無くとも素直に応じる。子どもたちは逆に無邪気に手を振り、私はよく車中から飴を放り投げた。外国人から見るとここはとても平和な村と感じるのだが、後からいろいろ困難な問題があることも知る。

 ミンダット村の森林レンジャーがここでもセミナーをやってほしいというので、6月に単独で活動紹介を行った。ミャンマーは誰かが号令をかけると人は良く集まる。日本との違いは若い人がとても多い。私は英語と身振り手振りで説明したが、若者たちには理解困難で質問もなかった。それでも静かに聞き入る姿が印象に残った。集合写真を撮りレンジャーが用意したお茶と揚げパンで歓談した後に「今日のイベントの椅子は借り物で、他にも何やらお金がかかっていてすまないが支払ってくれ」と言うので正直驚いたが、そこは穏便に済ませた。ミンダット村より貧しいカンペレ村の農民から寄せられた声は、“自分たちはまず移動手段がほしい”とのことであった。我々は傍から“焼き畑の拡大は森林環境に脅威”などと語るのだが村の日常が急速に変わる中で彼らが望むものは“利便性の向上”であった。(2021年6月27日)


写真:森林レンジャーの呼びかけで開かれたミンダット村でのセミナー後の集合写真

 (撮影日:2013年6月4日)


※ 2つの農村農民の環境保全の意識の違いを調査しました。

Community knowledge and attitude towards regional developmental requirements in remote townships of Chin state, Myanmar -A questionnaire on sustainability and subsistence to overexploitation of natural resources-, Saumya Nilmini Senavirathna, Hnin Wityi, Takeshi Fujino, International Journal of Human Culture Studies, 2014.


2021.6.22

ミンダット村の中心部は標高1,400mでミャンマーの統計書によれば5,800世帯、人口41,569人(一世帯平均7人家族)が暮らす。面積が大きく小集落が46もある。各所に湧き水がありドラム缶に貯留する。ミンダットの人口は増え続け乾季は水が枯れがちと聞いた。さて、私の目的は河川の底生生物調査である。道路の状態が良ければカンペレ村に続く山道を車で踏査し途中で唯一アクセスが可能な“チー川”に辿り着く。それにはジグザグの長い山道を伝って標高差650mを下る。通常ならば30分で到着できるために意気揚々としていたが初めての訪問時(2012年9月20日)は雨季の終盤で道が大変ぬかるみ乗車後すぐに「車はここまでが限界」となった。無理に進んでトラブルが起きれば助ける術はなく車が破損すればドライバー(報酬は会社が90%、ドライバーが10%)が全ての責任を負うため、いかに彼が従順でも雨季の山道だけは避けるようだ。それでも歩けば川に着くので、私は最小限の調査具を抱えて車を後にした。ドライバーとツアー・ガイドはその場で私達の帰りを待つ。初めての道は遠く感じ距離も相当(8km以上)あったが、ここまで苦労して来たのだからと引き返すつもりは微塵もなかった。

ミンダット村から西側の山地を望む(撮影日2012年11月29日)


2時間近くが経ち徐々に川の流水音が聞こえるようになり、ついに橋まで見えた。そして念願叶ってついに理想の山地河川に辿り着いた。大きい礫が点在する川の景観は日本とよく似ており、私は胴長靴に履きかえて河床の石を返し、水生昆虫がいるかを確かめた。水量が多いため調査は困難を極めるが望んでいたヒゲナガカワトビケラ属(日本の代表的な普通種でアジアに広く生息)も見つかり十分な収穫であった。私は安堵し一休みのつもりで胴長靴を履いたまま河川敷で仰向けとなったが直後に30分ぐらい眠った。これで調査場所が決まり、「ではどうやって村に帰るか?」だが夜道を歩くことは覚悟した。だが下りを1時間遅れで到着した体重3桁のアウン・ナンダ君のことが心配になった。そこで気が付くと橋の脇にある小屋でいつからか村人が集まりパーティを開いていた。彼らは中国製のバイクで山を下ってきたためアウン・ナンダ君が早速交渉して幸運にもパーティ終了後にバイクに乗せてもらえることになった。さらに小屋には放牧を営む一人の男性が棲み、私に片言の英語で話しかけてきたのだ。チン族の多くはキリスト教信者であり英語は教会で学習するのだが、まさかここで意思疎通ができる村人と出会うとは全く想像していなかった。彼はその後も私に協力してくれた。またここに来ることを伝え、私はバイクの荷台に乗り、極めて細身の若者に身体を預けて真っ暗でぬかるんだ山道を延々と登るのだが結構な速度に恐怖を感じつつも無事に車まで戻った。ドライバーやガイドを7時間以上も待たせたが彼らは文句一つ言わずに遅い夕食をとった。ちなみにアウン・ナンダ君は体重が重いという理由で私の2倍の金額を支払ってバイクに乗せてもらっていた。(2021年6月22日)


チー川のほとりで寝入った筆者(撮影日:2012年9月20日、アウン・ナンダ君撮影)

   チー川を渡る橋の脇の小屋に棲むキリスト教農民(右端)(撮影日:2013年4月12日


2021.6.15

ニャンウー・バガン空港からジープを1台借りてチン州に向かう。ドライバーはビルマ語しか話せないので英語を話すツアー・ガイドが付く。英語を話すといってもミャンマー流であるため伝わるのは最低限の内容であるが、バガンでは観光ビジネスとして定着しておりガイドの評判は発注元のヤンゴンの旅行会社に伝わるため働きぶりはよい。二人はスーツケースなどのカバン類を全て車上に載せて紐でしっかり固定する。そんなに厳重にやらなくてもと思ったのだが、後からその理由がよく分かった。標高数十mの大平原を5時間ほど走行した後は急な上り坂となり、1時間弱の走行であっという間に標高800mを超えるのだ。道路は舗装されておらず横揺れ、縦揺れともに激しく、この地域の生活文化の研究で訪れたイギリス人は”Born Shaking Drive”と表現した。言い当て妙でありアラカン山脈南東端部の特徴である。いよいよ少数民族のチン州に入ると決まった待合わせ場所でチン語とミャンマー語を話すローカル・ガイドが乗車する。彼がどのくらい待っていたのかは不明だが、そこに我々が待つことは一度もなかった。毎回、私1人を運ぶために定員4名のジープが満席になった。チン族は小柄で体も細く、ミャンマー人女学生が帯同したときはローカル・ガイドの妹も加わり6名で移動した。彼女は普段遠くに行く機会がなく同国の女学生がいたため一緒に回りたかったとのこと。当時、外国人がチン州に入域するたびに役所に立ち寄りパスポートとビザのコピーを提出した。また、幹線道路の要所が一本の竹でふさがれ、わずかな通行料を支払って通っていた。ところが国がますますオープンになると全ての手続きと2名のガイドを雇うことも不要になった。その後は私の仕事ぶりを良く知るドライバー(英語はできない。信用のみ。一度別のミャンマー人女学生が帯同した時は大変なご機嫌であった)との二人旅となった。


  ツアー・ガイドとローカル・ガイドに妹も加わり大所帯での移動(2012.12.2)


 さて、どうにかミンダット村の宿に到着したのだが、インターネットはおろか電力設備もなく、夜は電池式LED電灯でしのぐ(今は整っている。)アウン・ナンダ君も初めてで、ここならばミャンマーで日本の山地に一番近い環境と言うのだがヤンゴンにチン州の詳しい地図があるわけもなく、ここから伝言ゲームによる聞き取りが始まる。もう一つの集落であるカンペレ村の宿にチン州の地図があり、道の数よりもとても多くの水脈が描かれ集落の名前があった。やはり道路よりも水が大切なのだ。やっとの思いでたどり着いた私はこれらの水脈を全て制覇したい気持ちになり、ワクワクしがら宿のオーナーに指で場所を指して「ここに行けるか?」と尋ねると、彼は大きく頷いた。さらにワクワクして「時間はどのくらいかかるのか?」と聞くと、“歩いて4時間くらい”という。険しい斜面を登り降りするため車では行けないのである。私の出張日数は限られておりその余裕は一切なかった。バカンスや研究で訪れる欧米人ならば最低1週間滞在するはずなので自分の計画の甘さを痛感した。ここに来る観光客は全てビクトリア山へのトレッキングが目的であり川を見に山を下る客は一人もいない。しかしここに暮らすチン族は彼らの日常として自身の足で魚を捕りに行くのである。(2021年6月13日)

チン州南東部の地図の一部分。水脈は多いがどこも遠く行きづらい(2012.11.29)


2021.6.8

ミャンマーは6月から10月までが雨季、11月から3月は乾季、4・5月は暑季といって高温になる。初めて内陸のマグウェイ地区に降りたのは2012年9月19日で、ニャンウー・バガン空港到着前に上空からイラワジ川を眺めたときは「ミャンマーに来ている」という実感が湧いた。勾配がとても緩やかで日本のような堤防はなく川の流れはまさに自然任せである。ミャンマー海事大学の教員が「毎年船着き場が変わる」というのが理解できた。眼下にはバガン王朝時代(11世紀)に造られた数えきれないほどの寺院・僧院の遺跡が広がる。空港を出る所ですべての観光客に対して遺跡の保全のために15 USDの支払いが求められる。最初の数年は毎回支払ったが、後にバガンに用は無くチン州に行くと言うと免除された。さて、直線距離にして約200 km西方のチン州に行くのには2つのルートがあるが、道路はどちらも完全に舗装されておらず、所々が手作りで幅も狭い。その道をいつ製造したのか分からないほど古いトラックが大きな荷物を積んで行き交うのだ。私は窓ガラスのない古いジープで移動するのだが歳の若いドライバーは時速何キロという意識は無く目的地に早く着くことだけを考え、眼前に人でも動物でも見つけるとすぐにクラクションを鳴らした。一方、ベテランのドライバーは道路と車の加減を良く知っており、平均時速30kmで丁寧に走破した。ヤンゴン空港を早朝7時に出発して8時半にはニャンウー・バガン空港を後にするが、アラカン山脈南端の少数民族が暮らすチン州・ミンダットやカンペレの到着は毎回午後4時頃であった。まだ観光地として注目度は低く、鉱物資源もないため旧軍政は開発の価値なしと見たかマグウェイ地区は橋が十分でなく雨季は川を渡れない。しかし、地元の人は食料を運ぶのに困るため、重機による有料の「渡し」があった。そこを往復とも引っ張ってもらった。(2021年6月6日)


当時の道路舗装の様子を建設図書「舗装」に寄稿しました。2016年8月号・9月号





2021.6.1

ヤンゴンマンダレー道路から99マイル159.3km北方にある農業集落の中にヤンゴンの人に

知られる孤児院がある。 2016 年4月に私の研究室に入ったマンダレー出身のHtet Htet Moeさんがヤンゴンの友人から聞きつけ、夏休みの里帰り時にここを立ち寄りぜひ私にも行ってほしいと懇願してきた。

12月15日、ミャンマーはどこもクリスマス休暇が長いヨーロッパの観光客で賑わう中、短いヤンゴン出張の帰りに一緒に立ち寄った。ここに外国人が来ることはなく、私は初めての海外からの訪問者だという。

ミャンマーに孤児院は大変多くあるがその中でも規模が大きく、善良な僧侶が親から棄てられた子供を連れてきては村人とともに世話をする。

この孤児院の運営は同じミャンマー人からの寄付で何とか維持されている。それでも毎日栄養を取るのは困難である。

現在のミャンマーの混乱で、私たちは「なぜ軍は同じミャンマー人に対して銃弾を放つのだろうか」と疑問に思ったが、これまでの混乱でも同様なことが起きている。

AJMMCの小山 茂事務局長の話によると、銃を撃つのは孤児たちで軍に拾われるか僧侶に拾われるかで人生が大きく分かれ、軍に拾われた孤児は戦士として育てられるのだという。

そこに親の愛情を一切受けないで育つというのが大きな理由である。 私はこの孤児院に3回行ったが笑顔で対応する子供たちが多かったことがせめてもの救いと改めて思った。2021 年 5 月 29 日



2021.5.25

私が初めてミャンマーを訪れたのは2012年5月25日である。アウン・ナンダ氏は帰国後3人で同国初の環境コンサルタント会社を立上げていた。当時国際論争を呼んだ中国主導のイラワジ川上流域の大型ダム開発の環境アセスメント資料を入手し、メールで「何か一緒にできないか」と持ち掛けられた。私はミャンマーの自然環境に興味があり幸運にも研究費が獲得できたため実現した。彼らは私をヤンゴン空港で待ち受け即座に400km離れた首都ネピドーまで車で5時間かけて連れていき森林保全省大臣と面会を果たした。大臣や中枢の公務員も全て元軍人で私のほうが年下に見られたが“環境保全の日本人研究者”として紹介され「あなたがここでしたいことがミャンマーにとって良いことならば自由に活動して下さい」と穏やかに言われたのが印象に残っている。森林保全省は民政移管前まで「森林省」でありチーク材輸出のために“森林を伐採する”のが仕事だったが政策転換して“森林を保全する”側となった。しかし何をどうしたらよいのか分からないのである。後日面会の様子を政府系新聞社が写真入りで記事となった。政府の変貌ぶりにミャンマー人留学生は驚き、興奮したのである。





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